最近、喫煙者は肩身が狭い。ちょっと一服と思っても、そこは禁煙エリアだったということが多い。
たとえば、駅のホーム。
一時期は駅の隅っこの喫煙コーナーでは時間限定で吸えたものだが、それも撤去されてしまった。
今では喫煙者はどこでも隔離され、喫煙エリアで喫煙者がタムロしている光景は、高崎山のサル軍団さながらの雰囲気である。
いやサルが集まれば日頃のコミュニュケーション不足を調整するし、親睦も図るだろう。しかし、喫煙場所に集まる人たちが、「喫煙者の権利を守れ」とか、「喫煙者の復権のためにマナーの徹底を」などと話し合うなど皆無。お互い罪びとのようになるべく目を合わさないようにしている。
子供の頃には「きょうも元気だ!タバコがうまい!」などという威勢のいいキャッチコピーもあったが、いまや喫煙者は島流しにされた流人のようなのだ。
先日、一休みのつもりで入ったセルフサービスのコーヒーチエーン店でのこと。「灰皿は?」と聞いたら、店の女の子に「当店は全席禁煙です」と告げられた。「外ではお吸いになれます」と言われてコーヒーを載せたトレイを持って外の席に移った。
ところが、花冷えで肌寒いうえに時々、春嵐のような突風が吹き荒れ、ライターの火が吹き消されてしまう。口のタバコまでが飛ばされそうになる。(コンチクショー)と思う一方では、(そこまでして吸いたい?)と、我が身のサモシサが情けなくなってしまった。
タバコの煙りが周囲の人の健康に影響するという説の科学的根拠は認めるし、喫煙者のなかには眉を顰めたくなるようなヒジョーシキな人が少なくない。
典型が歩いて吸っていたタバコを火も消さずにポイ捨てするヤカラである。まして人込みで吸っているのは子供には危険極まりない。
なかには自転車をブンブン飛ばしながら吸うのがいる。灰を撒き散らして不快だ。それが若い女性だったりすると、世も末のような気がする。
しかし、世間にはこよなくタバコを愛し、携帯灰皿を常備し、左右前後を確認してから遠慮しいしい吸っている正しい愛煙家もいるのである。
その心ある愛煙家には嬉しいことが続いた。
近所の郵便局からの帰り、ガードレールに針金で括りつけられた空き缶で作った手製の灰皿が目に止まったのだ。バス停でもないところをみると、歩行喫煙者の吸殻の始末のためだろう。
これは推理するにタバコを吸わぬ人があまりに街の吸殻が放置されているのに感極まって設置したに違いない。愛煙家諸氏を裏切るような言い草だが、タバコ吸いの多数派は案外、吸殻の始末には無頓着だからだ。
もうひとつは犬の散歩の途中、大きなポリ袋を手にしたオジさんが道端に捨てられた吸殻を金バサミで拾い集める姿だ。目が合うとオジさんは秘密を覗かれたようにテレて目を逸らしたが、恥ずかしいのは喫煙者の当方だった。
せめて「お世話をおかけします」と声をかければよかったが、心中、正しい愛煙家を心がけます、と誓うだけだった。
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