その昔、兄弟や姉妹が多かった時代は、上から下へと「おさがり」をすることが自然体でした。衣服はもちろんのこと、教科書やカバンなども、お兄さんやお姉さんのお古を使っていても、誰も何も言いませんでした。
小さくなったセーターは、毛糸を解いて湯のしして新しいものに編み直したり、ふとんカバーなどとして新しい使命を与えてもらうこともありました。赤ちゃんのおむつは、浴衣を切ってつくったり、ふとんの綿は、中身を取り出して打ち直すことも行われていました。
戦後、ベビーブームが過ぎたあと、私が生まれた1950年代後半(昭和30年代)に入ると子どもの数は急激に減少して、2人きょうだいが圧倒的に多くなり、同性のきょうだいでも、上の子のお古を使いたがらない子どもが増えました。また、既製服が多く出まわるようになり、価格も安くなってきたのも手伝い、2人の子どもにお揃いの服を着せるのを楽しむ親も増えてきました。
私が結婚適齢期を迎えた1970年代後半(昭和50年代)は、まだまだ昔からの風習が根強く残っていました。おそらく着ることもない種類の和服まで、「和タンスの肥やし」として準備しなければなりません。
また、婚礼ふとんは、ほんとうにやっかいなものでした。新婚夫婦が使うためのものではなく、蔵の中に眠らせるためのものでした。もちろん、婚礼タンスセットを準備するのはあたりまえ。その中には、色とりどりの下着もかなりのスペースを占めていました。3足980円のソックス、特売のビキニショーツなど、金銭的にもかなりのものでした。それでも、花嫁は荷物の一環として準備しなければなりませんでした。
私がリサイクルを初めて知ったのは、1970年代後半(昭和50年代前半)でした。地元の「農協まつり」にバザーとして、家にある不要品を出して、代金は口座振込にするというものです。我が家がそこに出したのは、なんとタイヤ4本。金額にして1万円でした。
「人の使ったものなんて、誰が買うものか!」当時、農協職員だった私は、そう思っていましたが、ところが買い手がついたのです。
ほとんどの組合員さんたちは、気が引けるのか、新品の衣類や、自分でつくった手芸品などを出していましたので、中古品でも売れるのだと強烈なインパクトを受けました。
その後、なんらかのイベントがあるときには、必ずといってもいいくらい、バザーのコーナーがあり、しかも、売上げ代金は主催者へ寄贈する方法が定着してきました。そして、リサイクルの店もあちこちに誕生しました。
また、質屋といえばちょっと敷居が高いというイメージがあるのですが、人目を気にすることなく、表から堂々と入れるおしゃれな店も誕生しました。そして、男性からプレゼントしてもらったブランド品をちゃっかり持ち込み、換金する女性も誕生しました。
図書券や商品券を換金してくれる店も誕生、私も何度か足を運んだことがあります。最初は、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしていたのでしたが、安価で手に入れるのを目的にしている買い手もいるのだからと、割り切れるようになりました。
私がリサイクルを楽しむきっかけとなったのは、以前勤めていた職場のある女性の影響です。その人は、見た目はブランド志向ですが、大変な節約家だったのです。冷凍食品の半額セールが始まるのを待ち、売り場へ直行してかご一杯にするのは日常茶飯事です。食べざかりの子どもを含む大家族だから、食費もばかになりません。
また、彼女の洋服も高級品の半額セールを狙ったものがほとんどです。休日のたび、あちこちの店を歩き、様子をうかがっているというのです。そんな彼女や彼女の親戚から、新品同様の洋服をいただくことになってから私のリサイクル人生がスタートしたのです。
私も彼女から・いただくだけでなく、自分には不要な衣服を物々交換するなど、自分の身辺を整理しました。バツイチの私が持て余していた和服や、婚礼ふとんも彼女に引き取ってもらいました。また、日用品のリサイクル情報も彼女から入手し、電化製品、本などもリサイクルに出しました。
自分で捨てるとなると、勇気がいります。しかし、リサイクルという形で自分の手を離れると、最後の姿を見ずに済みます。また、自分が不要と思っていたものを必要とする人もいるのです。リサイクルは、ほんとうに環境にやさしい生活の智恵です。
<リサイクルの利点> |
・自分に不要なものを整理して住環境をすっきりできる。 |
・ほんとうに必要な人に使ってもらえるので、ものの有効利用につながる |
・最後は、自分で処分しないので、思い残すことがない |
<リサイクルの問題点> |
・人から譲りうけるとき、目の前で「いらない」と言いにくい |
・処分するとき、前の持ち主の顔がちらつき、後ろめたい気がする |
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